多くの文献ぶんけん資料しりょうもとづいて「紙のまち富士市」を紹介します。

江戸時代中期

むかし江戸時代の中ごろ、富士市ふじしでは「駿河半紙するがはんし」という手すき和紙が生まれました。
これは幕府が産業をすすめ、出版が増える中で生まれた”駿河ものするがもの“と呼ばれるヒット商品で、江戸や大阪・京都の町において好評を博しました。紙は三椏みつまたという繊維せんいの細かい木から作られ、やわらかく茶色ちゃいろがかったあたたかみのある紙で、書道や事務の用紙として広く使われました。天明元年てんめいがんねん(1781年)、富士宮の渡辺兵左衛門定賢わたなべひょうざえもんさだかたが富士山のふもとで三椏を発見し、紙をすいて「駿河半紙」と名付け、しだいに村々に広がり、大きな産業さんぎょうとなりました。手すき和紙の工房で受けつがれた技術は、明治時代以降に、富士地域が「紙のまち」として発展するためのいしずえとなりました。

明治前期

明治の時代になると、江戸時代までつづいた幕府のしくみがなくなり、宿場で働いていた人たちも仕事を失いました。そこで吉原宿よしわらじゅく内田平四郎うちだへいしろうたちは、人々の暮らしを助けるため、愛鷹山あしたかやまのふもとで三椏を育て、紙すきの仕事をすすめました。

明治12年(1879年)、栢森貞助かやもりていすけや内田平四郎が「鈎玄社こうげんしゃ」という手すき和紙工場をつくりました。ここでは家でつくるのではなく、工場で作る新しい方法として生産ラインの機械化に力を入れ、化学薬品を使った漂白ひょうはくなどの洋紙技術を取り入れたことが先進的せんしんてきで、大きな注目をあびました。

明治中期には、湧き水の豊富な今泉地区のガマを中心に芦川万次郎あしかわまんじろうたちによる手すき和紙伝習所てすきわしでんしゅうじょ田宿川たじゅくがわ沿いにつくられ、手すき和紙の技術者が育って行きました。その後、明治20年から明治30年代にかけて多くの手すき和紙工場が今泉地区のガマを中心に、原田はらだ比奈ひななどに相次いで設立されました。

明治中期

明治の時代になると、日本では洋紙ようしを作る会社がふえていきました。東京の銀行家ぎんこうかたちは、川の水の力を使ってかみを作ろうと考え、いろいろな川を調べました。そして、潤井川うるいがわの水が豊富ほうふであることから、富士市入山瀬村ふじしいりやませむらに工場を建てることになりました。場所は木材もくざいや水が手に入りやすく、東海道鉄道が開通して運ぶのにも便利な場所でした。
こうして明治23年(1890年)、東京の富士製紙会社ふじせいしがいしゃが日本で最初の洋紙工場ようしこうじょうを入山瀬に建設し、動きはじめました。工場ができたことで、鉄道が開通して失業しつぎょうした地元住民に新しい仕事が生まれました。その後、原・鷹岡・富士宮を結ぶ馬車鉄道が明治23年(1890年)に開通したほか、富士停車場ふじていしゃじょうが会駅し、さらに大正2年(1913年)には富士―大宮間に身延線が開通し、交通こうつうがどんどん便利になりました。

明治後期

明治の終わりごろ、富士製紙会社ふじせいしがいしゃができたことで、地元じもと和紙工場わしこうじょう機械化きかいかが進みました。明治27年(1894年)、原田製紙株式会社はらだせいしかぶしきがいしゃがつくられ、翌年から操業そうぎょうを始めました。初めはわらや紙くずを使った黒い半紙用の紙を作っていましたが、やがてボロと古網にネリを加えてナプキン原紙を生産せいさんするようになり、特異な紙として好評をはくしました。明治36年(1903年)にはナプキン印刷いんさつ機械きかいが開発され、大量たいりょうに生産して市場しじょうに出されました。さらに吉原よしわら佐野熊次郎さのくまじろう富士山ふじさんや花の模様もようを印刷する技術ぎじゅつを独自に開発しました。そのナプキンは日本でたくさん出荷しゅっかされ、外国がいこくでも高く評価ひょうかされました。そして明治43年(1910年)、日英ロンドン博覧会はくらんかい銀賞ぎんしょうを受賞しました。こうして今泉や原田地区を中心に機械抄製紙きかいすきせいしの小工場が次々に建てられ、これらにたずさわった多くの有能ゆうのう技術者ぎじゅつしゃが後の岳南製紙業界がくなんせいしぎょうかいに送り出され大きな原動力げんどうりょくになっています。

佐野熊次郎
原田製紙
ナプキン原紙
佐野熊ナプキン

大正から昭和

明治20年代の後半こうはん三木慎一みきしんいちがつくった小さな製紙会社せいしがいしゃの出現によって、富士市ふじしではいくつかの会社が生まれ、和紙わし工場こうじょうも機械漉和紙の工場に変わっていきました。大正たいしょう時代になると、この流れはさらに強くなり、手で紙をすく工場は少なくなり、機械で紙を作る工場が続々と誕生しました。大正年間に全国で39の製紙会社ができ、そのうち23が富士市にありました。このころすでに富士市は「紙のまち」とよばれるようになったのです。昭和しょうわの初めになると、世界せかい大恐慌だいきょうこうが起こり、日本にほんの製紙会社も苦しくなりました。昭和4年(1929年)には大手おおての王子製紙・富士製紙・樺太工業からふとこうぎょう三社さんしゃ合併がっぺいし不況を乗り切ろうとします。それでも富士市では昭和製紙しょうわせいしをはじめとする中小ちゅうしょうの会社が数多く生まれ、昭和12年(1937年)には今泉いまいずみ静岡県製紙工業試験場しずおかけんせいしこうぎょうしけんじょうができました。これらがいまの「紙のまち」をささえる土台どだいとなっています。

三社合併の調印式
鈴川駅から昭和製紙へ

昭和の戦中・戦後

昭和16年(1941年)、太平洋戦争たいへいようせんそうがはじまると、製紙は戦争には不要な産業と見なされて、それまでに操業そうぎょうしていたさまざまな工場が、軍部によって戦争に必要なものをつくる工場へと強制的きょうせいてきに変えられます。製紙工場も、「不要ふよう不急ふきゅう産業」のレッテルを貼られ、多くは休業きゅうぎょうしたり統合とうごうされたりしました。その中で一部の工場では戦闘機のプロペラや燃料補助タンク、火薬かやく原料げんりょう軍用地図ぐんようちずに使う紙をつくりました。敵戦闘機てきせんとうきによる銃撃じゅうげきも何回かあったようですが、工場としては大きな被害ひがいはなく、工場はほとんど無事に残りました。戦争がおわると新聞しんぶん雑誌ざっしを読む人がふえ、紙の需要じゅようが高まり、富士市の工場はすぐに再開さいかいしてにぎわいをとりもどしました。昭和30年代には古新聞ふるしんぶんをつかって再生紙さいせいしをつくるなど新しい技術ぎじゅつにも挑戦ちょうせんしました。そして経済けいざい成長せいちょうとともに、自動車じどうしゃ食品加工しょくひんかこうなどの工場もふえ、町には多くの人々が行き交い大変にぎやかで活気が戻っていきました。戦争が終わり、国民も落ち着きを取り戻し、新聞しんぶん雑誌ざっしを読むようになり、紙の需要が日増しに増えていきました。製紙産業せいしさんぎょうは久しぶりに活気を取り戻し、かつての「紙のまち」が復活ふっかつしました。

戦時中に配給所になった王子製紙富士第一工場

昭和から現代へ

昭和しょうわ40年代ねんだい高度成長こうどせいちょうとあいまって、地場産業じばさんぎょうである製紙業はじめ、自動車じどうしゃ食品加工しょくひんかこう化学繊維かがくせんい輸送用機械工業等ゆそうようきかいこうぎょうとう進出しんしゅつにより、飛躍的ひやくてき発展はってんをとげ、「紙のまち」から「ものづくりのまち」になりました。富士市では工場から出るけむりや水で、大気汚染たいきおせん水質汚濁すいしつおだくがひどくなり、田子の浦港たごのうらこうではヘドロ公害こうがいもおきました。悪臭あくしゅう騒音そうおんもふえ、マスコミから「公害のデパート」といわれるほどでした。そこで昭和40年代末から、国や市、会社、市民しみんが力を合わせ、煙突えんとつから出る二酸化硫黄にさんかいおうを減らす「富士503計画けいかく」や、工場排水はいすいの汚れをへらす協定きょうていなどが行われました。その結果、昭和50年代には空や海の青さをとりもどすことができました。こうした経験けいけんは、その後の製紙業界せいしぎょうかい環境かんきょうにに対する取組とりくみに大きな影響えいきょうを与えました。そして今では、紙の技術ぎじゅつをいかしたセルロースナノファイバー(CNF)や、プラスチックのかわりになるバイオマス素材そざい研究けんきゅうが進められ、社会的に化石由来プラスチックの削減さくげんがさけばれる中で、バイオマス素材そざいへの需要じゅようが高まり、新しいビジネスチャンスとなっています。

にぎやかな富士市
田子の浦港

※富士川水系の手すき和紙・富士市の製紙業・富士市の工業から抜粋しています。

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